近代医学の父「ジョン・ハンター」とは? ドリトル先生とジキル博士のモデル

児童文学の傑作『ドリトル先生』の主人公は、動物と話ができる温厚で優しいドリトル先生。人間性の二面性を描いた小説『ジキル博士とハイド氏』の主人公はジキル博士

この2人のモデルが同一人物であるといったら驚かれるでしょうか? 実はそういう説があって、モデルとなったのは18世紀に生きた実在の医師ジョン・ハンター先生です。

ハンター先生は後に近代医学の父と呼ばれる一種の天才でしたが、強烈な変人でもありました。

ジョン・ハンターはこんな人!

ジョン・ハンター(1728年2月13日-1793年10月16日)は「近代外科医学の父」と呼ばれます。

それは、何よりも科学的思考を大事にし、人体の仕組みを実際に解剖をして調べ、実践的に研究を深めたからです。

ジョン・ハンターが生きたのは、科学的な治療がいまだ行われていない時代でした。医者内科医)と外科医が明確に区別されており、外科医はなんと「床屋」業務の一種に位置付けられていたのです。

内科医は、卑しいことだとして患者に触ることもせず診断を下すありさまで、その治療も古代ギリシャのヒポクラテスにさかのぼるようなものでした。

当時の三大治療は中世から続く「瀉血」(しゃけつ:血を抜くこと)や「浣腸」、「催吐」(さいと:吐かせること)で、現代の目から見れば、医療とは名ばかり、かえって体に悪いのでは? と思われるような施術が当然だったのです。

しかし、ジョン・ハンターは当時の「常識」を信じませんでした。

彼は、実験し、推論を立て、推論を確かめるための実証を行うことを重視しました。

その手先の器用さゆえに人体の解剖から外科医としてのキャリアをスタートさせたジョン・ハンターですが(後述)、それゆえに彼は誰よりも人体の仕組みに通じていました。

病気で死んだ人がいると検死を行い、どこに不具合が生じているのかを見つけ、それがなぜ起こるのか、どうしたら不具合を回避できるのかを探求しました。

その結果をもって外科手術を行ったので、同時代の誰よりも先見的な外科医になったのです。

ただし、ジョン・ハンターは「手術はできるだけしない方が良い」とも考えていました。

彼が手術を行うのは、動物実験を行い、推論を立て、実験によってその推論が正しいと信じることができるとき、自分の治療に自信が持てるときだけでした

さらには患者が自分の治療に同意するとき。

ジョン・ハンターは旧弊な非科学的治療を否定し、何よりも実証を重んじることで外科医学に大きな進歩をもたらしたのです。ただし、彼は一方で強烈な奇行の数々でも知られています。

ジョン・ハンターの外科医キャリアは兄の助手から始まった

ジョン・ハンターの外科医への道は、兄であり医師であったウィリアム・ハンターの手伝いをすることから始まりました。

ウィリアム・ハンターは商売の才能を持った人で、イギリスで解剖教室を開くことを思い付いたのです。

ヨーロッパの大陸側では、パリ・ライデンなどで解剖学教室が開かれ、人体についての知識を深めようとする学生たちが詰めかけて大盛況でした。

しかし、イギリスにはそのようなものはなく、ロンドンでやればもうかるぞ!と考えたわけです。

ジョンを最初は助手として起用することにしましたが、実際に解剖をやらせてみると手先が器用で自分よりもうまいことが分かりました。

そのため、兄ウィリアムは講義を行い、弟ジョンが執刀するというスタイルになったのです。これがジョン・ハンターの外科医としての出発点になりました。

探究心・収集癖による奇行の数々

ウィリアムの目論見(もくろみ)どおり、解剖教室は大盛況となりましたが、運営し続けるには大きな障害がありました。解剖するための「遺体」を安定的に入手する方法が事実上なかったのです。

当時は、信仰上のこともあり、たとえ医学のためであろうとも遺体を毀損(きそん)することは許されるものではありませんでした(また誰も望みませんでした)。

また、現在のように「検体」といった制度もなかったので、解剖用の遺体を解剖教室のニーズを満たすほど集めることは不可能だったのです。

ウィリアムはこの作業を弟のジョン・ハンターに任せることにしました。ジョンは「事実上できない」のであればと、非合法な手段に訴えることになります。

●解剖用の遺体を入手するために墓荒らし

ジョン・ハンターは遺体を手に入れるために、人にお金をつかませ墓荒らしをやっていました。

完全に違法です。

墓堀り人、墓地の管理人、夜警などを買収することもありました。ジョン・ハンターは兄ウィリアムのため汚れ仕事を引き受けたわけです。

熟練した墓荒らしであれば、1体盗むのに約15分しかかからず、一晩で10体は盗めたそうです。

やがて、ジョン・ハンターは兄の下から独立し、自分でも解剖教室を開き、外科医としてのキャリアを深めていくことになります。

病人の遺体を解剖し、死因が何か、どの組織に異常があったのかを見極めることに熱中し、現在の言葉でいえば「生命科学」にその探究心は向かっていきました。

「蘇生」も彼の重要な研究テーマで……。

●世界初の除細動器による蘇生を実現!

彼は「心臓をふたたび動かすのに唯一考えられる方法は、電気を使うことだろう」とし、1774年、2階から落ちた3歳の少女に電気ショック(ライデン瓶を使ったと推測されています)を与えて蘇生することに成功しています。

これは記録に残る世界初の除細動器による蘇生で、医療の常識を200年も先取りすることになりました。

蘇生研究について、大きな話題となった事件もあります。

●首吊り処刑された人の蘇生に挑む!

ウィリアム・ドットという司祭が絞首刑に処されることになりました。1777年6月27日、刑は執行されましたが、死体が運び込まれるのを葬儀場で待ち受けたジョン・ハンターは司祭の蘇生に挑みました。

残念ながらこれは失敗に終わったのですが、「あの先生ならやってのけるのでは?」という期待が一般にあったためでしょう、「生き返ったドット司祭を見た!」といった証言があちこちから出たのです。

ジョン・ハンターは司祭の蘇生に成功し、今も司祭は秘かに生存している」というわさが独り歩きすることとなりました。

ジョン・ハンターは1日19時間働きました。

朝9時からは患者の診察を行い、睡眠時間は夜の4時間と昼寝の1時間のみ。

診察以外の時間は全て解剖台に向かい、自分の研究に充(あ)てていたのです。弟子が「いったい先生はいつ寝ているのだろう」といぶかしむほどの勤勉さで、朝の5時、6時に弟子が解剖室に向かうとすでにジョン・ハンターは作業をしていた、といった毎日だったのです。

推論・実証を経た治療を実践するジョン・ハンターは「名医」といわれるようになります。

そのため、診察を受けたいという患者は引きも切らずジョン・ハンターの家を訪れるようになったのですが……。

●あの家は怖い! 小説のモデルに

ジョン・ハンターが住んだレスター・スクウェアの邸宅は、表門には患者が詰め掛け、裏門からは解剖用の遺体、動物の骨などが運び込まれるようになりました。

そのため、高名な外科医であると同時に、なんだか薄気味悪い人だという印象を周囲に与え、彼の邸宅は『ジキル博士とハイド氏』の元ネタになったのです。

ジョン・ハンターの診察・治療費は「1件につき20ギニーの定額制」と決まっていました。しかし、貧乏な人から無理に金を取ることはせず、無料で治療することも少なくありませんでした。

動物斡旋(あっせん)業と動物園を営んでいたゴフという人は、受診に訪れると優先的に診察室に通されました。

ジョン・ハンターは「おまえは生きていくために1時間も無駄にできんだろう。あそこにいる金持ち連中は、どうせ家に帰ったってやることはないんだから、待たせておきゃいいんだ」と語ったそうです。

●「19ギニー」を返す

妻の手術をお願いしたい、と依頼した商店主がいました。

「定額20ギニー」と聞いた商店主が、妻を連れてジョン・ハンターの元を訪れたのは2カ月もたった後でした。お金をつくるのに2カ月かかったわけです。

苦労して工面したことを知ったジョン・ハンターはすぐに19ギニーを商店主に返し、「1ギニーだけ頂戴します。これだけなら、自分の思慮のなさに心を痛めずに済みますから」と言いました。

このような篤実な性格、動物に対する多くの研究などから『ドリトル先生』のモデルになったともいわれているのです。

ジョン・ハンターはまた博物学者の一面を持ち、人体の組織・病変サンプルだけではなく、珍しい動物の骨格などを集めるコレクターでもありました。

収集に熱心であったため彼のコレクションは膨大なものになっていきます(収集物は『ハンテリアン博物館』に現存しています)。彼の収集癖が引き起こした有名な騒動が……。

●チャールズを見張らせ骨格標本に!

有名な逸話の一つに「巨人」の死体を非合法に手に入れた、というものがあります。

アイルランドにチャールズ・バーンという巨人症で身長2m49cmという人がいました。

ジョン・ハンターは生前から彼に目を付け、チャールズが死んだらその骨格標本を入手しようと目論んでいました。そのためにわざわざ人を雇ってチャールズの具合を見張らせていたのです。

チャールズ側でもその監視には気付いており、「自分の死体は重りを入れた棺おけに入れて海に沈めてほしい」と遺言していたのですが、ジョン・ハンターは葬儀屋にお金をつかませて、まんまと見事に遺体を盗み出すことに成功。

かねてより準備していた特大の鍋で遺体を煮込んで骨格標本にしてしまったのです。恐るべき執念といえます。

ちなみに、ジョン・ハンターの弟子には種痘で有名なエドワード・ジェンナーがいます。

ジェンナーも未知の医療に勇気を持って取り組む科学者でした。事実から考えられる合理的な推論、そして実行。ジェンナーも師の教えを受け継ぎ、医学を大きく進歩させたのです。

師匠ジョン・ハンターは愛(まな)弟子エドワード・ジェンナーに、

お前の推論は正しいと思うが、なぜそれを実験して確かめようと思わないのだ

と諭したそうです。

また、ジョン・ハンターは自分が受け持った解剖教室の講義で生徒に対して、

「私は、これが生命の基本原則だと思えるものを、その時々で紹介してゆく。そして諸君には、すでにわかっている事実と比較したり、推論するという姿勢を要求する」

と語っています。

この言葉は、ジョン・ハンターが素晴らしい科学者であったことを私たちに教えてくれます。

事実、ジョン・ハンターの薫陶を受けた弟子たち(門下についた者だけでも延べ約500人といわれます)は、師の教えを実践し医学を科学的なものに変えていくのです。

ジョン・ハンターの先見性を示す事績として、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』より70年も前に、進化論に到達していたことが挙げられます。

さまざまな動物、人体を解剖し、比較検討してきたジョン・ハンターは、化石の収集・観察も踏まえた上で、「全ての動物は長い時間をかけて共通の祖先から進化してきた」という考えに至ったのです。

ジョン・ハンターは同時代人を凌駕(りょうが)する観察眼を持った、まさに「鬼才」と呼ぶにふさわしい人でした。

もしジョン・ハンターに興味を持ったら、以下の本を手に取ってみてください。現在の視点からすればいささか乱暴かもしれませんが、ジョン・ハンターがいかに真実を探求しようと努力したのか、そのバイタリティー、熱意が生き生きと伝わってくるでしょう。

⇒参照・引用元:『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(文庫)W・ムーア著/矢野真千子訳,河出書房新社,2013年8月20日初版発行

(高橋モータース@dcp)

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