「江戸時代のグルメ」とは?

和食は今や世界中に広がっています。スシ・テンプラだけではなく、ラーメンカレーなど極めて庶民的なメニューまで世界に輸出されています。

この日本の豊かな食文化は、そのルーツをたどっていくとその多くが江戸時代に端を発していまます。江戸時代にはすでに「グルメ文化」があったのです。

今回はその一端をご紹介します。

江戸の味とは淡泊なものだった

にぎり寿司や鰻(うなぎ)の蒲焼など、私達が「美味しいなあ」と食べている日本食は大抵江戸時代に確立されたものです。

江戸の味は「五白」(ごはく)と言われます。

白米豆腐大根白魚のことです。最初の3つ、白米、豆腐、大根を取って「三白」(さんぱく)と呼ばれることもあります。

これらから分かるとおり、実は淡泊な味が江戸の味わいの代表だったわけです。

江戸時代の中期以降には町人が力をつけ、文芸、文芸、音曲など様々な、今に通じる文化が生まれました。

食道楽もそのひとつです。

豆腐百珍』という豆腐料理の方法100種類を書いた本がベストセラーになったのをご存じの方は多いかもしれません(1782年刊行)。

この後、『鯛百珍』、『玉子百珍』といった類書が次々刊行されました。紹介されているものの中には、「本当に作ったのかな?」と思われるものもありますが、こういった本がもてはやされるほど食に関する興味が庶民にあったことは疑いようがありません。

今のグルメに通じる「食通」が流行したのは江戸時代も中盤以降になってからのことです。

『八百善』という超高級料亭がありました。浅草山谷で享保年間(享保年間は1718~1735年)に創業、江戸における会席料理を確立した有名な料理店です。

現代人も驚かせる『八百善』のエピソード

『八百善』については有名なエピソードが幾つも残されています。

ある時、通人の連れが『八百善』を訪れ、お茶漬けを注文しました。

しかし中々出てきません。半日ほどたってやっとお茶漬けが出ました。

食べ終わって帰ろうとしたら、なんとお代が1両二分

ビックリしていると、お店の説明が「春には珍しい瓜と茄子の香の物、お茶は玉露、お茶に使う最適の水を玉川まで汲みに行っている、なので時間とお金がかかる」というものでした。

一両二分というと、(1両=4万円で計算)6万円です。これが「八百善の1両二分茶漬け」として今も残る有名な話です。

また「ハリハリ漬け」を作るのに、尾張からわざわざ細大根を取りよせ、それを味醂で洗って漬けている。そのため値段は三百疋(ぴき)にもなるといった話が残されています。

三百疋というと6万円です(幕末期の話なので一疋=25文で、三百疋=7,500文、一両=5,000文、一両=4万円で計算)!。

客もまた味の分かる人たちだった!

しかし、『八百善』に関する最高のエピソードは酒井抱一(さかいほういつ)の話ではないでしょうか。

酒井抱一は姫路藩藩主、酒井忠仰の次男です(1761年/宝暦11年生まれ)。彼は名門・酒井家の出で、風雅の道にまい進した粋人でもありました。

ある日、『八百善』で出された白身の刺身をひと口食べた酒井抱一が箸を置いてしまいます。

どうしたのか、と聞いてみると「よくよくすすいでいない包丁で白身魚を切った。そのため金気が残っている」と言うのです。

『八百善』に来ていた客がどのようなものであったかがよくわかる話です。

この発言など、漫画『美味しんぼ』の海原雄山が言ってもおかしくはないでしょう。


白身魚の刺身に残る包丁の金気……。

確かに言われたら分かるのかもしれませんが、冷蔵庫が存在しない江戸時代に、そのようなハイレベルでグルメなやり取りが行われていたとは、驚きではないでしょうか。

淡泊な味を愛した江戸っ子はもしかしたら現在の私たちよりずっと繊細な味覚を持っていたのかもしれません。

(高橋モータース@dcp)

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