コッペパンが給食に定着した理由とは?

アラフォー世代以上の皆さんは、小学生のころの給食といえば「コッペパン」を思い出す人が多いのではないでしょうか? 何も入っていないプレーンなコッペパンだけでなく、ぶどう入り、揚げてきな粉をまぶしたものなど、いろんなバリエーションのものが登場しましたね。では、なぜ米が主食の日本で、給食にコッペパンが定着したのでしょうか?

学校給食はいつから始まったの?

学校給食の歴史をたどると、その起源は明治時代にさかのぼります。明治22年(1889年)に山形県鶴岡町の私立忠愛小学校が、貧困家庭の児童に無料で食事を提供しました。これが日本の学校給食のルーツだとされています。そのときのメニューはおにぎりと塩鮭、そして菜っ葉の漬物の3品でした。


日本最初の給食とされるメニュー

その後、私立忠愛小学校と同じように、貧しくて食事が摂れない児童に「給食」としてお昼ご飯を出す学校が増え始めました。当時の給食はお米がメインでしたが、パンを出す学校も少なからずあったといいます。

給食にコッペパンが出るようになったのはGHQの影響?

日本全国に広まりつつあった学校給食でしたが、第二次世界大戦が起こると日本は物資不足に陥り、給食も中断。その後、昭和22年(1947年)に、文部・厚生・農林の三省が定めた「学校給食実施の普及奨励について」(昭和21年通達)が発布され、再開されることとなります。


1947年の給食

戦後の日本にはアメリカなどから援助物資が送られきており、この援助があったために給食が再開できました。戦後まもなくの給食は、援助物資の脱脂粉乳やトマト缶を使っていたため、上の写真のようにトマトシチューやミルク(脱脂粉乳)といった洋風のメニューが中心でした。何かと「おいしくない」と言われている脱脂粉乳ですが、実は栄養価が高いため、成長期の子供には適していました。


昭和27年の給食

今回のテーマである「給食のコッペパン」は、1950年ごろから給食に多く登場するようになりました。当時、アメリカからの援助物資の中に小麦が多くあり、また日本にパン文化を定着させるべく、GHQが多くのパン職人を育てさせました。加えて、戦後しばらくはお米の価格が高く、給食に出すのが困難でした。こうした理由から、給食にお米ではなくコッペパンが出されるようになったのです。

コッペパンが提供され続けた理由は?

戦後の食糧事情が理由で給食のメインとなったコッペパンですが、お米の価格が下がってもコッペパンは給食のメインでした。なんと、1976年(昭和51年)に米飯の正式な導入が定められるまで、毎日のようにコッペパンが提供され続けたのです(たまにご飯も出ましたが)。

コッペパンが給食の主力であり続けた理由として「設備の問題」が挙げられます。小麦が安価で手に入ることもコッペパンが尊ばれる理由ではありますが、それ以上に米飯給食を提供するための設備を導入するための手間が大きかったそうです。給食で出す場合は、大量に炊飯できる設備を新たに導入しないといけませんから、そのコストをどうするのかが問題になります。そこで悩むのなら「じゃあこのままパンでいいじゃないか」となったのです。その後、導入コストが下がったことで炊飯設備の導入が進み、給食のメインもパンから米飯に移行。現在ではパンが出る回数の方が少なくなりました。

このように、戦後の時代背景や小麦の価格の問題、給食として提供するための炊飯設備のコストなどが理由で、コッペパンは給食に定着しました。もし救援物資に小麦が含まれていなかったり、安価な炊飯設備が確保できたりしていれば、日本の給食にコッペパンの姿はなかったかもしれません。

撮影協力:公益財団法人 埼玉県学校給食会
文・写真:中田ボンベ@dcp

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