日本時間4月8日から4月11日にかけて行われた米マスターズ・トーナメントで、松山英樹が優勝しました。アジア勢のマスターズ制覇は史上初の快挙です。過去には多くの日本人ゴルファーが挑みながらも悔しい結果に終わってきたマスターズですが、ついに重い扉が開かれることになりました。今回は、マスターズにおける日本人挑戦の歴史を紹介します。
そもそもマスターズとは?
マスターズは、毎年4月にアメリカ・ジョージア州のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで行われる大会です。ゴルフのメジャー選手権のひとつであり、優勝者には「グリーンジャケット」と呼ばれる緑色のブレザーが贈られることでも有名です。また、優勝者には本大会の生涯出場権が与えられるため、かつてはアーノルド・パーマーやジャック・ニクラスといった往年の名ゴルファーが、60歳を超えても参加していました。
「マスターズ・トーナメント」の始まりは1934年。アメリカ人ゴルファーのボビー・ジョーンズと友人のクリフォード・ロバーツの提案により「Augusta National Invitation Tournament」という大会名で開催されました。現在のように「マスターズ」という名前になったのは実は1939年からです。
鳴かず飛ばずの結果も多かった日本人挑戦
日本人ゴルファーが初めてマスターズに挑戦したのは、大会発足から2年後の1936年でした。そこから85年、60度もの挑戦を経て、ついに61度目で松山が日本人初優勝を果たしたのです。
まずは、初参戦した1936年から1990年代までの日本人成績をまとめてみました。
●1950年以前
1936年 陳清水 20位、戸田藤一郎 29位
台湾出身の陳清水(後に帰化)と当時「天才」と称された戸田藤一郎の2人が挑みました。結果は陳が20位、戸田が29位と初めての挑戦ながら奮闘しました。その後、日本は戦争に突入。日本人のマスターズ参戦は戦後の1958年までありませんでした。
●1950年代
1958年 中村寅吉 41位、小野光一 予選落ち
1958年には、戦後の日本プロゴルフ界を支えた中村寅吉と小野光一が参戦。しかし、残念ながら好結果を残すことは難しかったようで、中村は41位。小野は予選落ちと厳しい結果に終わります。
●1960年代
1963年 陳清波 15位、小野光一 予選落ち
1964年 石井朝夫 40位、陳清波 44位
1965年 石井朝夫 26位、陳清波 39位
1966年 陳清波 23位、石井朝夫 予選落ち
1967年 陳清波 46位、杉本英世 予選落ち
1968年 杉本英世 35位、陳清波 35位
1969年 河野高明 13位
1960年代は台湾からやってきた陳清波や、後に海外でも活躍する石井朝夫などが挑戦。そんな中、1960年代半ばから頭角を現した河野高明が13位と好成績を納めます。河野はその後も日本ゴルフ界をリードする存在になります。
●1970年代
1970年 河野高明 12位
1971年 河野高明 予選落ち
1972年 河野高明 19位、尾崎将司 予選落ち
1973年 尾崎将司 8位、河野高明 51位
1974年 尾崎将司・青木功 予選落ち
1975年 尾崎将司 43位、青木功 予選落ち
1976年 尾崎将司 33位、村上隆 37位
1977年 青木功 28位、村上隆 予選落ち
1978年 尾崎将司・青木功・中嶋常幸、全員予選落ち
1979年 青木功 34位、尾崎将司 予選落ち
1980年 中村通・青木功 ともに予選落ち
1970年代は引き続き河野高明が何度も挑戦しますが、マスターズの壁に跳ね返されます。しかし、1973年に挑戦したジャンボ尾崎こと尾崎将司が8位になり、日本人初のトップ10入りを果たします。尾崎の活躍は日本人のマスターズ制覇を予感させましたが、残念ながらこれ以降は厳しい結果に。1978年には尾崎将司、青木功、中嶋常幸と当時の日本プロゴルフ界のトップ3が挑みますが、全員が予選落ち。鳴かず飛ばずに終わり、世界とのレベル差を痛感しました。
●1980年代
1981年 青木功 45位、鈴木規夫 45位
1982年 羽川豊 15位、青木功 予選落ち
1983年 中嶋常幸 16位、青木功 19位、羽川豊 36位
1984年 青木功 25位、中嶋常幸 33位
1985年 青木功 16位、中嶋常幸 47位
1986年 中嶋常幸 8位、青木功 予選落ち
1987年 中嶋常幸・尾崎将司・青木功 全員予選落ち
1988年 青木功 25位、中嶋常幸 33位
1989年 尾崎将司 18位、中嶋常幸 予選落ち
1980年代は引き続き中嶋、尾崎、青木の日本ゴルフ界のトップ選手が挑み続けるも、中嶋の8位が最高。1987年には10年前のリベンジといわんばかりに再びBIG3がそろって参戦しますが、再び全員が予選落ち。マスターズとはそれほどまでに難しいのかと、当時落胆したゴルフファンは多いでしょう。
●1990年代
1990年 尾崎将司 23位、尾崎直道 33位
1991年 中島常幸 10位、尾崎将司 35位
1992年 中嶋常幸・尾崎直道 ともに予選落ち
1993年 尾崎将司 45位、尾崎直道 45位
1994年 飯合肇 41位、尾崎将司 予選落ち
1995年 尾崎将司 29位、中嶋常幸 予選落ち
1996年 尾崎将司・東聡 ともに予選落ち
1997年 尾崎将司 42位、金子柱憲 予選落ち
1998年 尾崎将司・丸山茂樹 ともに予選落ち
1999年 丸山茂樹 31位、尾崎将司 予選落ち
1990年代もジャンボが日本ゴルフ界をけん引しますが、ジョーこと実弟の尾崎直道も急成長。兄弟でマスターズに挑みます。しかし結果は厳しいものでした。1990年代後半には若手成長株の丸山茂樹が挑戦。CMにも多数出演している人気選手でもありましたが、マスターズは勝てませんでした。
2001年に日本人最高位が更新される
続いて2000年以降の日本人成績を見ていきましょう。
●2000年代
2000年 尾崎将司 28位、丸山茂樹 46位、尾崎直道 予選落ち
2001年 伊沢利光 4位、片山晋呉 40位、丸山茂樹 予選落ち
2002年 丸山茂樹14位、伊沢利光・片山晋呉・谷口徹 予選落ち
2003年 片山晋呉 37位、丸山茂樹・谷口徹・伊沢利光 予選落ち
2004年 丸山茂樹・伊沢利光 予選落ち
2005年 片山晋呉 33位、丸山茂樹 予選落ち
2006年 片山晋呉 27位、丸山茂樹 予選落ち
2007年 片山晋呉 44位、谷原秀人 予選落ち
2008年 片山晋呉・谷口徹 予選落ち
2009年 片山晋呉 4位、今田竜二 20位、石川遼 予選落ち
2000年代は丸山茂樹に加え、テンガロンハットがトレードマークの片山晋呉、ジャンボの弟子である伊沢利光など個性的なメンツが挑戦します。そんな中、2001年に伊沢が4位という優秀な成績を納めます。さらに、2009年には片山晋呉が伊沢と並ぶ4位でフィニッシュ。今回松山が優勝するまでは、この2人がマスターズ日本人最高位でした。
●2010年以降
2010年 池田勇太 29位、片山晋呉・石川遼 予選落ち
2011年 石川遼 20位、松山英樹 27位、池田勇太・藤田寛之 予選落ち
2012年 松山英樹 54位、石川遼 予選落ち
2013年 石川遼 38位、藤田寛之 予選落ち
2014年 松山英樹 予選落ち
2015年 松山英樹 5位
2016年 松山英樹 7位
2017年 松山英樹 11位、池田勇太・谷原秀人 予選落ち
2018年 松山英樹 19位、小平智 28位、池田勇太・宮里優作 予選落ち
2019年 松山英樹 32位、金谷拓実 58位、小平智 61位、今平周吾 予選落ち
2020年 松山英樹 13位、今平周吾 44位
2010年以降は、松山英樹のほか、石川遼や池田勇太など若手のホープが多く挑戦するも、松山以外は予選落ちが目立ちました。松山のマスターズ初挑戦は2011年。当時はまだ東北福祉大学に通う大学生でした。初挑戦の松山は予選を見事に通過し、日本人で初めてローアマチュア(参加したアマチュア選手の中で最上位)になります。結果は54位と悔しい結果に終わりますが、この経験が今回の優勝にも生きたことでしょう。
日本人のみならず、アジア勢でも初の快挙となった松山のマスターズ制覇。この勢いが続き、日本人によるメジャー大会制覇が続く可能性もあります。また、過去にマスターズを連覇したのは、ジャック・ニクラス、ニック・ファルド、タイガー・ウッズの3人だけ。松山は史上4人目の快挙に挑む「挑戦権」も得たわけです。気の早い話ですが、来年のマスターズで松山がどのようなプレーを見せてくれるのか、今から非常に楽しみですね。
(中田ボンベ@dcp)
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