衝撃の1989年ドラフト、史上最多の8球団が指名した野茂英雄の凄さとは


さかのぼること31年前、1989年のドラフト会議で、一人の社会人選手を8チームが指名するという異常事態が起こりました。その選手の名前は「野茂英雄」。後にメジャーリーグへと渡り、日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった選手です。今回は、野茂英雄の凄さを解説します。

プロチーム全てが注目したアマチュアNO.1投手

そもそも野茂は高校まではまったく無名の選手で、高校進学時に野球の強豪高校のセレクションを受けますが、ことごとく不合格になっています。このころ、すでに野茂の代名詞でもある「トルネード投法」に近い投球フォームでした。その後、野球の強豪ではない成城工業高校に進学します。そこで野茂は2年時に完全試合を達成。無名高をけん引する活躍で、プロからも注目される存在に成長します。

しかし、プロ注目といってもまだまだ無名なため、ドラフトでは指名されず。新日本製鐵堺へ入社し、そこの社会人チームでプレーすることになりました。野茂は落差の大きなフォークボールが最大の武器でしたが、フォークボールを覚えたのはこの新日鐵時代。野茂は落差の大きなフォークと鋭く伸びるストレートを軸に、新日鐵のエースとして活躍。日本代表に選出され、1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得の立役者となりました。

こうした活躍から、プロから最も注目される選手となった野茂は、迎えた1989年のドラフト会議で、なんと8球団から指名されます。これは当時の史上最多指名数で、現在もこの8チームを上回る指名を受けた選手は出現していません(翌1990年に小池秀郎が同じく8球団で並ぶ)。8球団という前代未聞の指名を受けた野茂の交渉権は、最後にくじを引いた近鉄が獲得。野茂は近鉄に入団することになりました。

1年目からすさまじい成績を残す

全プロ野球ファンが注目する野茂の1年目ですが、その期待を大きく上回る驚異的な活躍を見せます。4月10日の西武ライオンズ戦でプロ初登板を果たした野茂は、2試合連続で勝ち星がつかないという歯がゆい結果となりますが、プロ3戦目となる4月29日のオリックス戦で、なんと1試合17奪三振を記録して初勝利を達成。17奪三振は当時の日本記録で、新人がそう簡単に出せる数字ではありませんでした。

その後も野茂は登板するたびにルーキーとは思えない安定したピッチングでパ・リーグの強打者たちを翻弄。終わってみれば29試合に登板して18勝8敗。防御率2.91、287奪三振、勝率.692の成績を残し、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率のタイトルを獲得。さらにベストナイン、新人王、リーグMVP、沢村賞にまで選出され、新人ながらなんと「8冠」を達成したのです。

しかし、野茂の快進撃はこれで終わりではありませんでした。ルーキーイヤーの1990年から1993年までなんと4年連続でリーグ最多勝利を記録。また、この4年間は常にリーグ最多奪三振を記録しており、いかに当時のバッターが野茂のボールにバットを当てられなかったかが分かります。野茂が記録した4年連続最多勝は、2リーグ制となってからは最長の記録です。

マイナーからメジャー屈指の投手へ

1994年に野茂は肩を負傷し、その影響で8勝7敗と自己ワーストの記録に終わります。さらに、その年のオフに球団や監督と軋轢が生まれたことでチームを離れる決心をし、その結果、近鉄を任意引退し、メジャーリーグに挑戦することになったのです。

1994年2月13日、野茂はドジャースに入団。日本ですさまじい成績を残したにも関わらず、マイナーでの契約でした。当時は日本の野球選手がメジャーに挑戦することは珍しく、日本球界のレベルも疑問視されていてため、いきなりメジャー契約することをチームは敬遠したのです。

しかし、その逆境に屈しなかった野茂は、見事にメジャー契約を勝ち取り、5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビュー。その試合では白星を挙げることはできませんでしたが、6月2日の試合でメジャー初勝利を記録すると、続く14日のパイレーツ戦では新人では球団最多記録となる16奪三振と快投を披露。先発の要として前半を6勝1敗で折り返した野茂は、なんといきなりオールスターゲームに選出されるという快挙を達成したのです。

後半戦も7勝5敗と好調を維持した野茂はチームの地区優勝にも貢献。デビューシーズンを13勝6敗で終え、奪三振数はなんとリーグ最多の236を記録し、1年目ながらアジア人として初となる最多奪三振のタイトルを獲得しました。この活躍を受け、アメリカでは野茂を熱狂的に応援する『NOMOマニア』という言葉まで生まれました。野茂の活躍はMLBを席捲したのです。

1年目の活躍でいきなりメジャーを代表する投手の一人となった野茂は、その後もアジア人初のノーヒットノーランを達成するなど、さまざま記録を樹立。2008年までメジャーで投げ続け、通算323試合123勝109敗の数字を残し引退しました。

今では日本人選手がメジャーに挑戦するのは当たり前のようになっていますが、現在の日本野球とメジャーをつなげる道を切り開いたのは間違いなく野茂です。もし野茂がメジャーに挑戦しなかったら、イチローや松井秀喜の挑戦もなかったかもしれません。そう考えると、野茂の挑戦がいかに偉大なことで、どれだけ日本の野球に貢献したのかが分るでしょう。

週が明けて10月26日に、2020年プロ野球ドラフト会議が開催されます。果たして野茂のように、野球の新しい道を切り開くパイオニアとなる選手が出てくるのか、非常に楽しみなところです。

(中田ボンベ@dcp)

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